fc2ブログ

暁スタジオ レコーディング日記

ミュージシャン服部暁典によるレコーディング、ライヴ、機材のよもやま話

2011年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2011年12月

≫ EDIT

「ふわり/水沼慎一郎」評 - 音楽家が生きる意味

満を持して水沼慎一郎の「ふわり」というアルバムについて書いてしまおうと思う。

fuwari.jpg

とは言え要旨は簡単だ。良い。映画でも音楽でも、最初の数十秒で好き/嫌いはわかる(良い/悪いがわかるのは少し時間がかかる)。このアルバムの最初の30秒で重要な音楽が生まれたことははっきりわかる。最初の30秒で「この音楽は好きじゃない」という人もいるだろう。しかし「良い音楽」が生まれたことに異論を唱える人はそうそういないと思う。

自分にとって水沼の音楽はとても新鮮なものだ。定型音楽ばかり愛好している自分にとって、「あ、このメロディがこんな風に展開するのか…」とか「え?そこにこういうハーモニーが付くの?」という、気持ち良い裏切りが続くからだと思う。そしてその「裏切り」は奇をてらったものではなく、彼の中の必然に基づいて与えられたものだとも思える。

この「与える」と思えることは頼もしい。つまり「偶然こういう曲になりました」ではなく、曲が彼の管理下に置かれているのが実感としてわかる。作品を聴いて同じように思える人が私の周囲にも何人かいるが、例えば水沼が師匠筋としている鈴木雅光の作品にも同様の感触を覚える。理論と感覚がきちんと融合している人の作品に共通の感触なのだろう。

このように書くと「ふわり/水沼慎一郎」は理屈詰めの音楽なのか、という誤解を招きそうだがさにあらず。音楽の好き/嫌いを分ける「情念」がこのアルバムには詰まっているからだ。こうでなくちゃいけない。チェスや将棋ではコンピュータプログラムが「手筋や過去事例の解析」によって、人間のチャンピオンと死闘を繰り広げるレベルに到達するまでになったけれど、音楽は手練手管の解析によってできあがるものではない。面白いことに音楽に於ける必然性を与える(決定する)最後の要素は人間の情念なのだ。個人的には特定の収録曲に特定の情念が込められていることも知っているが(笑)、それは作者と個人的に親しいから得られるオマケのようなものだ。

美しいメロディとハーモニー。必要最低限の楽器世界。試しに四季を通じてこのアルバムを聴いてみれば良い。春夏秋冬どの季節にもこのアルバムはフィットするだろう。人の生活に寄り添える音楽はそれだけで価値がある。それはつまりこのアルバムが普遍性を獲得しているということだ。同じ音楽の道を歩む者として、これはもはや嫉妬や羨望を通り越して脱帽というレベルである。おめでとう。

他にレコーディング技術面から書く人もいないと思うので、そういう視点でも書いてみる。本作はLogic付属のプラグインサンプラーEXS24のピアノサンプルで演奏され、エフェクターも付属のプラグインだけで処理されていると言う(コンプレッサーなどの音量加工系のエフェクトは使用していないとのこと)。個人的には本作の表現方法としてこの方法は最適なものではないと断ずる。特に特定の曲の特定の部位(音使い)でサンプルサウンドの弱さを実感する瞬間がある。これはいくら巧みにリヴァーブ処理をしてもどうにもならない。願わくば本作はきちんと手入れされたピアノで生演奏したものを収録して欲しかった。弾き手は水沼本人でも良いけど、ピアニストを雇っても良かったとすら思う。mp~mfあたりの表現力が抜群の人に弾いてもらって、響きのきれいなホールで良いエンジニアに録って欲しい。

もっともだからと言って本作の価値が減ずるわけではない。前述のとおり音楽としての普遍性を獲得しているからだ。第一サンプラーで演奏されているとネタ明かしをされていても、そこに気が付く人はそれほど多く無いだろう。第一今私が書いたような手法で録音できる日を待っていたら、この作品が世に出るタイミングはもっと遅くなった可能性がある。それはよろしくない。作品は人に聴かれるタイミングも重要だ。2011年の秋にこの作品が世に出たことも重要なのだ。水沼は成し遂げた。成し遂げただけでなく本作によって人を幸せにする。音楽家が世に必要とされる意味を身をもって示しているのだ。
スポンサーサイト



| 音楽雑感 | 18:28 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

2011年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2011年12月