2015.05.14 Thu
オリジナル曲はライヴで聴きたい
私が参加するバンド「旅団」は、基本的にはオリジナル曲を演奏するバンドである。私にはこの「オリジナル曲を演奏すること」の重要性が年々大きくなっているように思えてならない。
20年くらい昔。私は松澤社中というバンドで武者修行のように弾きまくっていた。社中の黎明期は、市販の既成曲を適当につまみ食い的に取り上げては好き勝手にアレンジを施してライヴをこなしていた。だがそれにもだんだん飽きてくる。そもそも飽きっぽいメンバーが多かった(笑)、社中は。リハーサルも綿密に行うようになり、オリジナル曲に自然と挑戦するようになった。
当時私は「聴いたこともない曲ばかり演奏して、お客さん、楽しいのだろうか?」と不安に思った。だがその不安は杞憂だった。曲の完成度や、そもそもの表現力という問題は厳然としてあるが、オリジナル曲が演奏されるライヴは聴き手にも良い意味で緊張感があり、ライヴ慣れした聴き手ほどその状況を楽しめるのではないか。弾き手が聴き手を育て、聴き手が弾き手を育てる良循環を、弾き手としてギリギリ伸び盛りと言える20代の終わりに体験できたことはとてもラッキーだったと今は思う。
ライヴパフォーマンス、すなわち生演奏の価値とは、言うまでもなく「その時その場にいないと聴けない」ということに他ならない。ストリーミング配信だろうがライヴ録音音源だろうが、その時その場の空気が動いていた身体的感覚は伝えられない。また前述したような弾き手と聴き手の幸福な関係性もまた、その場にいなければ感じにくい。あの一体感をなんと表現すれば良いだろう。映画と同じで「ある時間ある場所に拘束されること」が、その一体感には重要なんじゃなかろうか。
どんな経緯で手に入れたのかも思い出せない圧縮音源を、イヤフォンで細切れに聴くことがあたりまえになってしまった2015年、オリジナル曲をライヴ演奏する価値は逆に高まるだろう。音楽を聴く事に貪欲な人には生演奏であることも重要になるだろう。そしてその結果、なんとなく音楽を聞いているような人たちをライヴ会場から遠ざける可能性もある。ライヴが「ハードルの高い」体験となって、聴き手が淘汰されることは考えられる。なにしろ時間や体力、財力までも能動的に「ライヴ」に割かなくてはならないのだから。
しかし希少なものに人は魅かれるという現実もある。音楽が本当の意味で力を発揮するのはそこからではないか。
20年くらい昔。私は松澤社中というバンドで武者修行のように弾きまくっていた。社中の黎明期は、市販の既成曲を適当につまみ食い的に取り上げては好き勝手にアレンジを施してライヴをこなしていた。だがそれにもだんだん飽きてくる。そもそも飽きっぽいメンバーが多かった(笑)、社中は。リハーサルも綿密に行うようになり、オリジナル曲に自然と挑戦するようになった。
当時私は「聴いたこともない曲ばかり演奏して、お客さん、楽しいのだろうか?」と不安に思った。だがその不安は杞憂だった。曲の完成度や、そもそもの表現力という問題は厳然としてあるが、オリジナル曲が演奏されるライヴは聴き手にも良い意味で緊張感があり、ライヴ慣れした聴き手ほどその状況を楽しめるのではないか。弾き手が聴き手を育て、聴き手が弾き手を育てる良循環を、弾き手としてギリギリ伸び盛りと言える20代の終わりに体験できたことはとてもラッキーだったと今は思う。
ライヴパフォーマンス、すなわち生演奏の価値とは、言うまでもなく「その時その場にいないと聴けない」ということに他ならない。ストリーミング配信だろうがライヴ録音音源だろうが、その時その場の空気が動いていた身体的感覚は伝えられない。また前述したような弾き手と聴き手の幸福な関係性もまた、その場にいなければ感じにくい。あの一体感をなんと表現すれば良いだろう。映画と同じで「ある時間ある場所に拘束されること」が、その一体感には重要なんじゃなかろうか。
どんな経緯で手に入れたのかも思い出せない圧縮音源を、イヤフォンで細切れに聴くことがあたりまえになってしまった2015年、オリジナル曲をライヴ演奏する価値は逆に高まるだろう。音楽を聴く事に貪欲な人には生演奏であることも重要になるだろう。そしてその結果、なんとなく音楽を聞いているような人たちをライヴ会場から遠ざける可能性もある。ライヴが「ハードルの高い」体験となって、聴き手が淘汰されることは考えられる。なにしろ時間や体力、財力までも能動的に「ライヴ」に割かなくてはならないのだから。
しかし希少なものに人は魅かれるという現実もある。音楽が本当の意味で力を発揮するのはそこからではないか。
スポンサーサイト
| 音楽雑感 | 20:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑