暁スタジオ レコーディング日記

ミュージシャン服部暁典によるレコーディング、ライヴ、機材のよもやま話

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聴き手ががんばることで愛せる音楽・松本隆の歌詞に思う

松本隆作詞の曲を聴いて、2015年の現代における日本語歌詞と時代の速度感を対比した時に思うことを書いてみたい。Facebookに2回に分けて書いた内容だが、本来の発信場所であるこのブログに整理してみる。


NHK総合、2015年10月30日22時から放送されたSONGSという番組は松本隆スペシャルだった。つまみ食いのように流された80〜90年代の有名曲は、1968年生まれの自分にはまさに小・中・高校生という多感な時期を伴走してもらった名曲の数々だった。そして2015年、松田聖子デビュー35周年を飾る1曲を御大と呉田軽穂で作ったという。番組最後の曲がその曲だったのだが、詞はいつもの松本隆として、とにかくアイデアのてんこ盛りのようなメロディだった。聴いて反射的に思ったのは呉田軽穂のメロディメイカーとしての才能はすごい!ということだった。

「赤いスイトピー」に匹敵する新しい松田聖子のスタンダードを作ろうとふたりは意気込んだそうだが、実際その素質はこの新曲「永遠のもっと果てまで/松田聖子(作詞:松本隆 作曲:呉田軽穂 編曲:松任谷正隆)」にはあると思う。だがしかし、2015年に10代を生きる子どもたちには、あまりにも冗長な詞であり曲ではないか?という実感も大きくあった。ゆっくり。遅い。現代に通じる曲ではない…。



なぜそんな風に受け取ってしまったのか考えた。「赤いスイトピー」が発表された1982年に比べれば(いや90年代全体までを含めても良いと思うが)、日本の流行歌は変わった。日本語のラップがもはやごく普通の表現方法として定着し、また楽曲が演奏されるテンポ自体も全体的に速くなった。80年代だって「速い」印象を与える曲はあるにはあったが、それらは少数だったからこそ印象に残った。一番決定的に違うのは「バラード」とカテゴライズされる曲のテンポが速くなっていることだと思う。1968年生まれの私からすると、現代でバラードとして扱われる曲は「それ、ミディアムテンポじゃん」というものばかりだ。速い曲が速くなっているのではなく、「ゆっくり」演奏されるべき楽曲のテンポが速くなっている。それこそ「時代」の要求なのだろう。日本音楽界の才人ふたりが結集した「永遠のもっと果てまで」が、どうにもメインストリームと微妙にズレているように感じたのはそれが原因ではないかと思われた。

甚だ個人的な観点で恐縮だが、これは恐ろしいことである。前述したとおり、松本隆を軸とした松田聖子の楽曲は、私にとってもはや水や空気と同じ存在である。同時にお手本でもある。目指すべき頂点とも言えるそれら才人の作品が現代で通用しないとなれば、自分の音楽的価値基準がもはや現代に通用しないということと同義である。これは怖い。

ところが不意に考え直すきっかけが降りてきた。同じくNHK総合、2015年度後期のNHK朝の連続テレビ小説の主題歌「365日の紙飛行機/AKB48(作詞:秋元 康 作曲:角野寿和・青葉紘季 編曲:清水哲平)」を聴いて驚いた。これは完全にフォークソング〜ニューミュージックなのだ。それは私のよく知る世界。テンポも普通だし特にセンテンスを詰め込んだ早口言葉のような歌詞でもない。実際にはこういう楽曲も流行歌の中にもあるわけだ(同じく2014年度後期のそれは中島みゆきが歌っていた!)。80年代とは異なり、単なる「歌」を「流行歌」たらしめる価値感はいまや多様で、必ずしも服部個人の音楽的価値基準が否定されるものではないのだ。よかったよかった。


公式じゃないけど、ちょうど歌詞テロップも乗っているので…

それにしても、だ。松田聖子の「永遠のもっと果てまで」がなぜ「遅く」感じるのかという疑問は残る。サンプルとして適当かどうかわからないが、とりあえず「永遠のもっと果てまで」と「365日の紙飛行機」を比較してみると、案外それはすぐに気が付いた。松本隆の歌詞が秋元康のそれに比べて重く、遅い印象を持ってしまうのは、歌詞のセンテンスがいちいち複層的なイメージを持ち、聴き手が脳内で再構築する余地が大きい=たくさん想像できるからではないか。「永遠のもっと果てまで」は何しろ歌い出しからすごい。最初の1行は「夕陽を絞ったジンジャーエール」である。呉田軽穂も冒頭に触れた番組で感嘆していた。この1センテンスで聴き手は膨大な量の記憶をリファレンスする必要があり、夕陽そのものの情景、ジンジャーエールが置かれている場所、時間(まぁ夕方に決まっているが)などを再構築できる。もっと言えばそういう脳内再構築作業をすることで、まるで自分がこの歌の主人公のように錯覚できるのである。

対して「365日の紙飛行機」の歌い出しは「朝の空を見上げて 今日という一日が 笑顔でいられるように そっとお願いした」。2行、4センテンスを使っても、要は「お願いした」ということしか言えていない。そしてそこに聴き手が自らの持つイメージをリファレンスして再構築できるような余地もない(「朝の空」のイメージは人それぞれだろうけれど)。

どちらが良い・悪いではなく手法の違いがあるだけなのだが、松本隆の歌詞には聴き手が言葉と自分の記憶を再構築できる自由度がある代わりに、それを面倒くさいと思われたらまったく響かないという特性がある。この「聴き手ががんばらなきゃ味わえない感」こそが、重く遅く感じる理由なのだろう。何もかもが説明過多な2015年に、松本隆の歌詞は素っ気ないし面倒くさい。しかし聴き手が面倒くさがらずに「考える」作業をすることで、突如「言葉」と「イメージ」の広大な宇宙が脳内に広がるのだ。松本隆の歌詞は、がんばる聴き手を許容する懐の深さがある。それはとてつもなく深い。

※UtaTenによる「永遠のもっと果てまで」の歌詞はこちら。「365日の紙飛行機」の歌詞はこちら
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