暁スタジオ レコーディング日記

ミュージシャン服部暁典によるレコーディング、ライヴ、機材のよもやま話

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表現=人間そのもの説

2015年は自分の音楽活動は地味だったと自覚している。人前で演奏する機会も少なかったし、積極的に音源を発表したわけでもない。一方で、偶然にもミュージシャン以外の方と実演したり、公演に観客として参加することで、自分の頭の中を少し整理することができたと思っている。そして私は得心した。「全ての表現行為が人間から発露している以上、表現者が試みる全てのアプローチは、どんなものでも自分の音楽や演奏に取り入れることができる」ということを。


渋谷亜也さんの朗読公演に音楽と演奏で参加した際のリハーサルは、間やタイミングをどうするかということよりも、言葉の解釈をすり合わせる時間の方が長かった。おかげで朗読も演奏も同じ解釈に則っているのなら、作品へのアプローチの多少の差は障害にならないどころか、むしろ作品解釈の多様性を保障する必要な「揺らぎ」だということも確信できた。「こう解釈してくださいね!」とステージから提示したら、観客の想像の余地は無い。そういう一方通行しか理解できない観客が増えたら、「表現」という行為はどんどん根腐れしていくのではないか。

ダンサーの友人たちの話やパフォーマンスもとても参考になった。コンテンポラリーダンスをどう楽しんだら良いのか。自分にはしばらくわからなかったのだが、クマガイミホさんや千葉里佳さんの実際のダンスを見ている最中にじわじわとわかってきた。これはダンスに限った話ではなく、実は自分が「表現に対するアプローチ」として慣れ親しんでいる考え方を転用すれば、たいていの表現行為というものはストンと理解できるのだ。これは発見だった。誰かと音を出す時に、まずどうやってお互いのことを知るか。ある曲を理解しようとする時に、自分はどうやって曲に潜っていくか。自分の場合だったらそんな考え方でいい。例えばジャズは「一定のルールを理解した上で、そこから逸脱する」という理念があるからこそジャズでいられる。革新と形骸化のサイクルを何度も繰り返し、その都度新しい表現を試みるミュージシャンによってアップデートされ続け、それは今も続いている。だがこれはジャズに限った話ではなく、トラディショナルの反対にいる表現、現在進行形の表現行為はどんなものだって「ルールの理解とルールからの逸脱」を繰り返している。恐らく文章もそうだろうし映画もそうだろうし…、つまり冒頭に書いたとおり、人間の内面から発露されるものであれば、ある表現活動で行われているアプローチは別のあらゆる表現活動へ共有可能であり、あるアプローチに精通していれば、別の表現活動であってもそれをきっかけに読み解くことができるのだ。

結局、我々が何かの方法で表現しているのも客席で観賞しているのも「人間そのもの」だ、ということになる。あるいは「人間とは何か」という問いを様々な表現で投げ続け、考え続けているとも言える。

モチベーションの問題として、音楽の理論を研究し続け、実験し続けることは可能だと思う。あるいは部屋にこもってひたすら楽器を練習し続けることも可能だと思う。しかし理論を裏付けとして、演奏の基礎力を背景にして、それを作品に昇華できるのは、作曲者/演奏者の人生経験によって培われる「人間力」だと思いたい。そのための「勉強」はまた別の次元、別のフィールドで行われるのだ。
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| 音楽雑感 | 21:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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